今回は、あまり思い出したくない怒りの記憶を掘り起こします。
しつけの手段に『恐怖』を使った自分への怒りの記憶を、記録に残さないのはフェアじゃないので、とっても恥ずかしいけどここに記します。
極力感情に任せて子育てをするのは避けていて、怒りという感情を息子たちにぶつけないようにしていた。心底怒ったというのはないはず。怒る演技は何度もあったけど。
ただ、忙しい時や自分の思い通りに息子たちが動かない時には、言うことをきかせるための手段にゲンコツや頭叩きなどの『恐怖』を使ってしまうことが何度もあった。
これは本当に情けないことで、手を上げた瞬間に自分への怒りで胸が苦しくなった。3~4歳の子に『恐怖』という安易な手段を選択した未熟さに絶望したことが多々あった。
体罰と言われたらそれまでで、何の反論もできない。
だから、ここから書くことは言い訳ではなく、子どもに手を上げて、『恐怖』という感情で行動を支配しようとした僕の懺悔だと思ってほしい。そして、自分への戒めとしての意味合いもある。
長男君にも二男君にも手を上げたことがある。もちろん、手加減してのゲンコツや頭叩きだけど、暴力という『恐怖』には変わりない。
僕がその最も愚かな行為をしてしまう理由には、必ず『伝わらない苛立ち』があった。
『何回も言っているのに…』『なぜ直らない…』
最初は言葉で伝えていたのだけれど、当然息子たちにも言い分があって、泣き叫び冷静な話し合いができなくなる。そして、僕は伝わらない苛立ちから『恐怖』という手段を使いねじ伏せてしまう。
伝わらないのは当たり前だ。成長過程の赤ちゃんに毛が生えた程度の年齢だから。そんなことは百も承知で、わかっているつもりなのに、安易な手段で解決してしまう僕がいた。
きっと、余裕がなかったのだろう。じっくりと話をする余裕。自分の価値観以外を受け入れたり、受け流す余裕。
そして、自分への驕りだ。
教育に携わる者として、自分の教育観を押し付けていたのだろう。多様な子どもの行動や反応を受け入れず、頭から否定していたから、『恐怖』を使って解決してしまったんだろう。
職場では絶対にしない手を上げるという行為を、家庭で自分の息子たちにしてしまっていた。何となく、家庭という空間でなら許されるという勘違いと甘えだったのだろう。
子供を育てていながら、親も子供に育てられている。息子たちは僕に無償の愛をくれる。しつけを言い訳にせずに、僕も息子たちに無償の愛で応えなければならない。
今でも、息子たちと接する時に迷いが生じる時があるし、苛立ちを覚える時がある。
けれども、自分の心に誓わないといけない。
子どもに手を上げて、『恐怖』という感情で行動を支配してはいけない。それは、しつけではないのだから。
過去の僕の行為を否定することで、今の僕は存在している。守るべき家族のために成長し続けている。
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