NICUから二男君が出てくるまでの記憶

二男君

二男君は誕生してすぐに、NICU(新生児集中治療室)に入ることになった。

今回は、二男君がNICUからGCU(回復治療室)を経て退院するまでの、1か月半の記憶を掘り起こそうと思う。

NICUでの生活

そもそも、二男君は1928gで生まれ、低出生体重児と呼ばれ、身体の機能が未熟だったために入院することになった。肺も未発達で自立呼吸ができず、母乳も自ら飲むことができなかった。

それでも、よくお母さんのお腹の中で耐えたもんだ。妻の必死の声かけが届いていたのだと思う。

だから、僕は対面は出来ていたが、抱っこ等のように触れ合うことはまだ許されていなかった。

出産直後の1~2日は妻も入院したが、3日目には二男君をNICUに残し、退院せざるを得なくなったのだ。ここから、妻は実家からNICUへ、母乳を届けるために毎日通う生活となった。

NICUは、僕と妻だけ入ることが許可されていて、祖父母や長男君は入ることが出来ずに、外から眺めることしか許されなかった(デリケートな新生児が生活しているからである)。

二男君の身体には、呼吸を助ける機械や栄養をとるためのチューブ等が繋がれていて、それを見た長男君が微妙な反応を示したのを覚えている。

しかも、黄疸治療のため、光線療法という青い光を当てられ、その光から目を守るためのアイマスクもしていたので、異様な姿だったことは間違いない。

実際、僕も面会に行った時には、かなり緊張したことを覚えている。初めて抱っこできた時も、長男君で慣れていたはずなのに、とてもぎこちなかったと思う(各種チューブが外れないか気が気でなかった)。

ただ、NICUのスタッフさんたちはとても親切丁寧で、しかも美人さんが多かった(妻ともよく話していたぐらい)。安心して二男君を任せられる環境だったことに間違いない。

妻が家とNICUの往復生活になって大変だったことは、二男君よりも長男君のメンタルだった。

妻が出産前に緊急入院したことで、祖父母の家でお母ちゃんと離れて生活することになったのだが、その期間はとてもお利口さんだった長男君。その反動が一気にきたのだ。

離れて暮らしていたお母ちゃんが戻ってきたことで、長男君の赤ちゃん返りが始まったのだ。思い通りにいかないと暴れ、妻と祖母を困らせた。まぁ、ヒドかったね。

夜中に起きて、泣き叫び、気持ちをコントロールできない状態が続いた。

でも、それは仕方のないことだったんだよ。長男君なりに何かを感じ取り、家族のためにお利口さんを演じてくれていたんだから。

僕がそれを見たのは数回だったけど、妻は今でも言う。『お父ちゃんがいる時は全然マシだった』とね。

休日は、僕と長男君でよく遊びに出かけた。あの頃は、イトーヨーカドーのチャイルドスペースがお気に入りだったんだ。何せ誰も人がいなくて、貸し切り状態だったからね。

フライドポテトを買って帰るのがお決まりのコースで、長男君はポテトのことを『ぽてぽてと』と呼んでいたのはかわいい記憶。わざわざ、ポテトの油をキッチンペーパーで吸い取ってる僕と妻。

GCUでの生活

NICUで1か月を過ごした二男君は、順調に成長してGCU(回復治療室)に移ることになった。

GCUとは、家に帰る準備をする赤ちゃんが入院する場所なので、二男君の退院もあとわずかという状態だった。

ただ、妻は引き続き母乳を届けるために病院へ通っていたので、出産で体が弱っていることに加えて、家での長男君の面倒もあって、メンタルと体はボロボロの状態だった。

当時僕は、仕事を極力制限し、家族のために動いていたつもりだったが、妻の負担を軽減するまでには至っていなかったと思う。妻と祖父母には、感謝してもしきれない。

GCUに2週間いた二男君だが、もうすぐ退院できるという話から一転、どうしても自力で呼吸するのを忘れてしまうらしく、医師のGoサインがなかなか出なかった。

この頃は、何とももどかしい日々が続いた。

やっと退院して、初めて家に二男君が着いた時にはもう年末になっていた。何はともあれ、家族4人が無事に勢ぞろいしたことになる。

なかなかハードな出産物語だったと思う。

ようこそ二男君、おかえり二男君。よく頑張りました、お母ちゃんと長男君。

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