家族全員で乗り切った出産と奇跡の立ち合い

二男君

今回は、二男君が生まれた時の記憶を掘り起こします。

二男君の場合、妊娠から出産までピンチの連続だった。まさに、妻と二男君コンビ、お父ちゃんと長男君コンビの戦いだったように思う。

妊娠から入院

出産予定日の2か月前から、妻の体調が一気に悪くなり、救急で産婦人科に受診することになった。検査結果としては、このままでは未成熟のまま生まれてきてしまう危険性があるとのこと。いわゆる切迫早産と呼ばれるもの。

外の世界に出てこようとする二男君と、それを何とか胎内で食い止めようとする妻の戦いが始まったのだ。妻はすぐに緊急入院しなければならなくなった。

子宮頸管が著しく短縮してしまい、切迫早産のリスク因子となってしまったのだ。こうなると、出来ることは絶対安静で、早産を避けなければならなかった。2歳の長男君の面倒を見るには、あまりにリスクが高いということだ。

妻の入院で一気に浮上した問題が、長男君をどうするか。まだ2歳になったばかりの長男君の面倒を、日中誰が見るのか。

僕が2か月以上も休みを取るのは、どうしても不可能だった。となると、どうしても妻の実家の祖父母に頼るしかなく、2歳の長男君はいきなり両親と離れて暮らすことになったのだ。

僕の職場と実家の距離は車で往復3時間かかることもあり、週末は妻の実家で生活し、平日は長男君との別居生活となった。今思うと、長男君はあまり状況を理解していなかったのだろう。

長男君は驚くほどスムーズに、祖父母との暮らしをスタートさせた。その反動が来るとは、この時思ってもいなかったけれどね。

妻は安静にしていることで子宮頸管の長さを維持し、二男君は自らの体重を少しでも増やす努力を始めた。

あの頃は、『まだ出てきちゃダメだよ』と、毎日お腹に語りかける日々だったように思う。

本来の出産予定日の1か月前、外に出てこようとする二男君を押さえるのが厳しくなってきた。出産可能なギリギリの体重まで増えたものの、様々なリスクを抱えたままでの出産になるということだった。

僕としては、『何とか母子ともに健康で生まれてきてくれ』と願うだけだった。

出産~奇跡の立ち合い~

10月18日の昼頃、僕は部活指導を終えて妻の実家に帰宅した。妻から電話があり、『お腹に張りがきて陣痛っぽいけれど、まだ生まれないと思う』と伝えられた。

だから、平日会えていない長男君と遊ぶために、2Fに上がろうとした。

その時、何か胸騒ぎがしたことを覚えている。長男君を祖母にお願いし、病院に行ってみることにしたのだ。この時、生まれるとは思ってもいなかったので気軽な足取りだった。

病院のナースステーションに到着すると、なぜか誰もいなかった。奥の方で何かザワついている感じはあった。一人の看護師さんが僕を見つけると、

『旦那さん到着しましたー!!!』と叫ばれた。『え?待たれてたの?』

この段階で、僕は状況が掴めていない。『まさか、今生むの?』『さっきまだ大丈夫って言ってたのに?』

後に判明したのだけれど、妻は急に陣痛が激しくなり、僕に連絡しても間に合わないから急遽一人で生むことになったそう。それなのに、予期せず僕がふらっと登場したもんだから、奇跡の立ち合いというわけ。

だから、ナースステーションに僕が到着した時は、ほんの少しだけヒーロー扱いだったの。

話しを戻すと、

訳が分からないまま処置室に連れて行かれ、カーテンのついた物置に入れられた。絶対に出産を見守る夫が入る場所ではないところに。

音声だけは聞こえ、医者と看護師のバタついている感じや、妻のいきみ声は聞こえてきた。そうこうしているうちに、『バシャー!!』と破水した音が聞こえた。

この時の音だけ聞いている僕の心境は、不安、焦り、困惑という何とも言えないものだった。その個室から解放されてすぐに、二男君が生まれた。

長男君も小さかったが、それ以上に小さい小さい1928gの赤ちゃんが生まれた。すぐにNICUに運ばれて、肺に管を通された二男君は何とか産声をあげた。

混乱の中生まれた二男君に出会えた時、やはり僕は感動したんだ。安心と喜びが混ざった感動。

『初めまして、これからよろしくね』

様々な機器をつけられた二男君は、少しだけ僕たちのところに戻ってきて対面することができた。でも、機器がついているせいで、初抱っこはお預け。

長男君の時とは違い、二男君の名前は決まっていて、ちゃんと将来幸せになれる画数を調べ命名したよ。

無事に生まれたはいいけど、その後の1か月をNICU(新生児集中治療室)で過ごすことになった二男君。

NICUでの話は、また別の記事で。

1人よりも2人、3人よりも4人。家族が増える喜び

コメント

タイトルとURLをコピーしました